04/08/23 「水滸伝」を楽しく読むために 高島俊男 『水滸伝の世界』
2005/06/18 23:49[下へ]




「水滸伝」を楽しく読むための格好のガイドブック。北方謙三『水滸伝』の面白さを倍増できます。
著者の高島俊男氏は中国文学の研究者で、著書に『李白と杜甫』『中国の大盗賊』『水滸伝と日本人』『水滸伝人物事典』などがある。私は少年時代に簡略版の「水滸伝」(おそらく100回本)を読んだときの残尿感的印象だけがあったので、今回北方謙三の『水滸伝』を読むにあたって「水滸伝」とはそもそも何であるのかを大ざっぱにでも知っておきたい気持ちからたまたま本書を手にしたのだが、結果的に充分にその目的は達成できた。

水滸伝のあらすじ、主要登場人物の活躍のエピソードが紹介され、ひととおりの筋立てが理解できる(豪傑たちの物語、武松の十回)。
勇気も腕力も力量もなく、頭も悪い、人格も卑劣で、風采もあがらぬ宋江という男がなぜ梁山泊の首領として登場するのか(総大将宋江)。
同じように腕力も智謀もなく何の取り柄も魅力もない影の薄い盧俊義が梁山泊のナンバーツーなのか(副将盧俊義)。
諸説があるなかで著者の独自の分析が述べられるが、少年時代に読んで釈然としないままであった疑問が晴れたような気がした。

英雄豪傑たちが女にはひどく淡白なのだが、それはこの物語に熱狂した大衆の願望であったする見方も面白いところだ(英雄色を好む?)。
「水滸伝」には人が人を食うという「陰惨の極度」というべきエピソードがなんども出てくる。オハナシにはちがいないのだがそれが一般中国人にとっては理解可能なことであり、一方日本人にとってはそうでないところの感性の違い、中国共産党政権がこのエピソードを簡略化したいきさつを解釈するところも興味が尽きない(人を食ったお話)。
実在の盗賊・宋江三十六人の実話が小説水滸伝として完成されるまでのプロセスには中国大衆の生活の歴史が反映されている(講釈から芝居まで、誰が水滸伝を書いたか、遼国征討、一番いいテキスト)。

宋江三十六人の実話は本来ならず者、盗賊の物語であったのだが、これが誠忠無比、強力無比の天子の軍隊となって帝国の敵・遼を成敗する物語に発展すると「『忠義』水滸伝」とされる。やがて宋江三十六人の実話はまさに「農民の反抗運動であり革命戦争」であって水滸伝は「偉大な英雄史詩」だと毛沢東が持ち上げる。しばらくすれば、いやあれは朝廷に帰順するのだから反動の書であると批判される。あるいは官製の標準版が発刊されたり、ご都合主義の注釈が挿入されたりする。小説「水滸伝」には100回本、70回本、120回本があるのだがこれが大衆に根付いたベストセラーであるだけに時々の政権主体にとって歴史的意義付けが大変やっかいのようだ。政権が変わるたびに猫の目のように変わるところを皮肉たっぷりに解説するところが圧巻である(水滸伝をチョン切った男)。

著者は序列第二十六位の李俊という脱落し生き延びる人物がこの水滸伝の思想、作者の世界観、人生観を体現していると述べている(李俊のばあい)。水滸伝には個々の豪傑のエピソードがたっぷりと語られているが、縦軸に梁山泊という盗賊集団の運動と運命、あるいはその生成、発展、変質、破滅の過程を描いている。無敵の英雄たちの波乱万丈の物語ではあるが「ああすべてはむなしかったのだ」、著者は英雄たちが「夢のまた夢」を見たにすぎなかったのだと解釈する。これは老荘思想にある人生哲学なのだが、こうした一切を空の空なりとする世界観が一貫して色濃く流れているのだと。
さらに著者は、しかし民衆は李俊のようには現実から逃避できないのだ、「さればこそ水滸伝は本体のものがたりより付随的なエピソードによって民衆に知られ、作者の理想を託した李俊はほとんどはやらず、寄席の講釈師から借りてきた乱暴至極、凶悪至極の豪傑たちにばかり人気が集まったのだろう」と結論付けている。
おそらくこれは通説ではないだろう。しかし私には充分に納得できるものがあっ




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伝奇小説||評論

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