橋がかりと花道(五月大歌舞伎・幡隨長兵衛の演出。5月15日)
2008/05/16 17:36[下へ]

笹の葉を一枚とって唇にあて、音を出してみる。
あるいはまた、葉に切れ目を入れて、舟の形をつくって、水に浮かべる。

そんなところから、「詩」は始まる、と思う。

二つの言葉を並べて、二つの単語の最後の音が、同じ音であることに気づくとき。
音節の長さが同じ単語をいくつか並べて、リズムの快さに響くとき。

そこに存在する何かを、それが本来提示している姿とは違う姿で見ようとするとき、あるいはまた、それが本来使われるのとは異なる使い方をしようとする時、そこに、「詩」が生まれる。

だから「詩」は、いろんな、思いがけないところにあって、私たちを待ち伏せして、驚かせて、喜んだりする。

昨日の歌舞伎「幡隨長兵衛(ばんずいちょうべえ)」の演出もまさしくそうであった。

解説に、場面は劇中劇から始まる、とあって、幕が上がって確かに舞台の上にもう一つしつらえられた舞台で、劇中劇らしきものが演じられ始める。
横に、江戸時代の町人の姿をした、舞台番らしき男が座っている。

しかし、観客がいない。

本来の舞台の上のかなり奥の方に、つくりものの舞台はしつらえられていて、観客席をしつらえるのに十分な空間が手前に空いているのに、観客の役をする役者たちがいない。

一体なんなんだろうと思ううちに花道から酔っ払った町人が現れて、ののしり出す。

あわてて立ち上がり、走り寄る舞台番の男。

「お客様に迷惑がかかるじゃないか」と言って、花道の両側の客席を指す、客席からどっと笑いが起こる、ここで、虚構が現実に魔法をかけ、現実が虚構に転ずる。

そう、劇中劇の観客は、私たち自身なのだ。

2008年5月15日の昼間、銀座の歌舞伎座で歌舞伎を鑑賞している客、それが、同じく2008年5月15日の昼間、銀座の歌舞伎座で演じられる歌舞伎の劇中劇の観客なのだった。

舞台番の男のそぶりが魔法のバトンのような役をして、2008年5月15日、東京は銀座にいる私たちがある瞬間を境に、江戸の、村山座という芝居小屋の観客になる。

花道で演じられていた喧嘩がおさまり、「お座りになって、お座りになって」と、観客に声をかけながら、舞台の中央へと戻って行く舞台番の町人。
彼から声をかけられるたびに、「歌舞伎座」の観客は、「村山座」の観客へと染め替えられ、江戸時代へとタイムワープする。

自分たちが、江戸時代へとタイムワープするのを見る私たち自身の驚き・・・。

観客を、劇中劇の観客に見立てるという演出は、昨年世田谷パブリックシアターで上演された野村萬斉の「国盗人」にもあって、非常に興味深かったのだが、ではこれは、歌舞伎の一演出にヒントを得たものだったのだろうか。
こうした演出は、日本でかなり昔からとられている、演出の常套手段のひとつだったのだろうか?
だとしたら、日本の演劇は随分進んでいたのだなぁと思う。

虚構が現実にはみ出し、現実を虚構で染め上げる。
現実が、虚構に転ずる瞬間、それはきっと、「詩」が生まれる瞬間だ。
あるものが、ほかのものへと転じることへの意識、それは、「詩」だと思う。

能の「橋がかり」は、「あの世」と「この世」を結ぶ橋だが、「花道」は、虚構と現実を結ぶ道なのだろうかと、昨日の演出を観て考えたことであった。

(フランス語の受講生の方たちとつくっているサロン・ボヌールというミクシイのコミュニティのイベントとして組んだ昨日の歌舞伎会。
番組最初の「義経千本桜」も、海老蔵演じる平知徳の最後が圧倒的な迫力で凄かった。一人の演技で延延と、域をも継がせない緊張が続く。何もせりふを言わない「間」ばかりなのに、その「間」が異様な緊迫感だった。
「間がもたない」というのは、こういう演技の逆を言うのだなぁなどと、納得してしまった。)













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歌舞伎|現代詩|

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